〝劇場の10ドル〞と「メンタル・アカウンティング」

専門家として一つ注意しておきたいのは、すべての意思決定がシステム1かシステム2のいずれかに振り分けられるわけではないという点です。前回のブログで話した通り、2つのシステムは同時に動いており、複雑に連動しています。

しかし、そんなことを言われても対策のしようがなく、読者の皆さんは困ってしまうでしょう。「システム1vs システム2」を実際に生かしていくには、「人間の非合理な意思決定にはシステム1が大きく関係している」とだけ理解しておけばいいでしょう。

実際、「認知のクセはじっくり考えないことで生じる」というのは多くの研究で証明されていますので、関連する行動経済学の理論をいくつか見ていきましょう。

お金は数字で示され、価値も一定で、合理的なものの代表のように思えますが、実はこれも非合理な認知のクセの影響を受けています。セイラーの定義した「メンタル・アカウンティング(Mental Accounting)」はその代表例で、人間には「心の会計」があり、同じお金でもどのように取得し、どのように使うかによって、自分の中での価値が異なってくるという理論です。少しわかりづらいので、例を出しながらご説明しましょう。

カーネマンとトベルスキーが発表した有名なメンタル・アカウンティングの研究は「劇場の10ドル」という研究。この実験では、被験者に以下のような質問をしました。

「あなたは、劇場でチケットを買おうとして財布を開くと、10ドル札を失くしたことに気づいた。それでもあなたは財布から10ドル出して当日券を買いますか?」


この問いには88%の人が「イエス」と答えています。一方で、今度は以下のような質問をしてみました。

「あなたは事前に10ドルの前売券を買っておいたけれど、劇場に着いたら前売券が見当た

らない。それでもあなたは財布から10ドル出して当日券を買いますか?」

この問いにイエスと答えた人は46%。半分以上の人はノーと答えました。

2つの質問のどちらの場合も、失くしたお金の価値は10ドルで変わりはありません。しかし、同じ10ドルであっても、お札を落とした場合と前売券を落とした場合とでその後の行動が変わっているということは、その10ドルに対して感じている心の会計が異なっているということです。

つまり、メンタル・アカウンティングとは、人の心の中に「そのお金が何のためのお金か」、無意識に「仕分け」がされているということです。先ほどの実験の場合、被験者の心の中には無意識に「劇に使うお金は10ドル」と仕分けがされています。

前者の質問の場合、失くした10ドルは劇とは関係のない10ドルです。失くしたことに対するショックはあるものの、それと「劇のために使う10ドル」とは〝別会計〟なのです。ですから、10ドルを出すことに抵抗がありませんでした。一方で、後者の前売券を失くした例の場合、前売券を買った時点で、被験者はすでに「劇のために使う10ドル」は使ってしまっています。その前売券を失くしてしまったわけですから、失くした10ドル(の前売券)は「劇のために使う10ドル」に会計されているのです。ですから、それ以外に10ドルを出すことは、劇のためにさらに追加で10ドルを出すことになってしまい、そこに心理的な抵抗が生まれます。

合理的に考えれば、損をしたのは同じ10ドルなのですから、行動が変わるというのは非合理的です。しかし、実際には人間はこのように非合理な行動を取ります。

まるで会計(家計簿)上で、それぞれのお金が何のために使ったものか仕分けがされているように、人の心の中にはそれぞれのお金が何のために使われるべきか、無意識に仕分けがされ、その仕分けによって同額のお金でも価値が変わってきます。これがメンタル・アカウンティングなのです。


メンタル・アカウンティングには他にもいろいろな例があり、例えば多くの人がやっている、「給与から積み立てる子どもの教育費が3万円、住宅ローンが8万円、食費が6万円、交際費が3万円……」というお金の配分にも影響しています。

「今月は食費を使いすぎたが、交際費は少なかった」

このとき合理的に考えると、交際費で使わなかった分のお金を食費に回せば、全体としては最適化されるでしょう。交際費を使わなかったということは、家での食事が増え、そのため食費が増えたと考えるのも合理的でしょう。しかし、人間には何にいくらを充てるべきかが別個に配分されるバイアスがあります。 ですから、食費を決められた範囲の金額に抑えようと、忙しいのにいくつもスーパーを回って安い食材を探すなど、無駄な時間と労力をかけてしまう。この非合理な行動もメンタル・アカウンティングによるものです。

また、「思いがけない収入」が入ったときにも、人間はメンタル・アカウンティングによって非合理な行動を取ります。例えば、政府の給付金、臨時ボーナス、片付けをしたときにたまたま出てきたお金。

このときにも、もし合理的に考えれば、「貯金が進まないマイホーム資金に回そう」となるのですが、心の会計上では「うれしい臨時収入」という仕分けに入ってしまいます。そのせいで、つい外食したり、奮発して高いワインを買ってしまったりと、結局、無駄遣いをして消えてしまうということが起きます。ですので「メンタル・アカウンティング」という非合理なものを持っていると自覚することはとても重要です。

 

「行動経済学が最強の学問である」より抜粋。

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脳の2つの思考モード「システム1 vs. システム2」